「差別される側」として生きる痛み ―それは「心の問題」ではない

発達障害の診断を受けてから10年以上になる。

この10年ほどの間で痛感させられてきたことがある。それは、「当事者と支援者・専門家との間は常に『当事者性の有無』によって隔てられている」ということだ。

発達障害は「差別される側」として生まれつく

誰かが発達障害者であることは、その人が発達障害者として生まれついたことを意味する。彼らは生まれたときから発達障害だ。療育やらSSTやら服薬やら、さまざまなケアで乗り切りがうまくなることはあるだろう。しかし、たとえ乗り切りが最大限うまくなっても彼らは、発達障害者であることからは基本的に死ぬまで降りられない。

それは、彼らが生まれてから死ぬまで、何をどのように努力しても願っても、「差別される側」であることからは(彼らの生きている間に医療の飛躍的な発展でもない限り)降りられない、ということを示している。

発達障害者は「差別される側」として生まれつくのだ。

それは「心の問題」ではない。社会システムの問題だ

「あるアンケートで『精神障害者とは働きたくない』と答えた人が多かったことを知って気が滅入った」と語った発達障害当事者に対して、ある支援者が「ほかの集団でアンケートをとったら違う結果かもしれないでしょ」「嫌な気分になる情報はできるだけスルーしたほうがいい」ということを言っているケースを目にしたことがある。

違うのだ。私は当事者だからわかるけれど、あの当事者が言いたかったのはそんなことじゃない。気の持ちようとか、ちょっとした気分の浮き沈みの話じゃない。あの人は、自分が社会システム的に差別される側に生まれついたことについての、毎日決して絶えることのない、人生の通奏低音のような深い悲嘆の一部を吐露していたのだ。アンケートの話はこの悲嘆を説明する無数の例の中のひとつにすぎない。

あの支援者に悪意がないのも、ポジティブで熱意があってとてもいい人であることもわかっている。嫌な情報はスルーしろと言ったところからは、「発達障害者はひとつの情報に意識がスタックしてしまう傾向がある」という背景知識が十分にあることも伺える。けれどこの支援者に一つだけ足りないものがある。当事者意識だ。

現実問題として、世の中は障害者を差別する傾向にある。システムがそうなっている。そしてそのシステムが常に、障害者の前に立ちはだかる。これが障害者の生きている現実だ。

世の中は、身体障害者よりも精神障害者を差別する傾向にある。システムがそうなっている。障害者手帳や障害年金の更新手続きにおける身体障害者との扱いの違い、JRでの運賃割引の有無、障害者雇用市場での温度感の、身体障害者と精神障害者でのあからさまな違い。

世の中では、同じ精神障害者の中でも、知的障害者が最も歓迎され、次に統合失調症の人が歓迎され、発達障害者が最も歓迎されない傾向にある。全く間違ったことだとは思うが、現実問題システムがそうなっている。当事者には、障害者雇用市場でのそのような温度感の違いが肌身でわかるだろう。

どれだけポジティブに捉えようと努力しようと、どれだけ、そんなはずはないと願おうと、発達障害者の人生においては、有形無形の差別がいつも目の前に立ちはだかっているのだ。職場で排除されるならまだマシなほうで、労働市場にさえ入れてもらえないことも多く、結果としていつも貧困が背後に迫っている。そんな人生で、嫌な情報はスルーして気分よく生きていくなんて物理的に不可能だ。

それは心の問題ではない。「人による人の差別」という、社会システムの問題なのだ。

それは心の問題ではない(渡邊芳之:帯広畜産大学教授)#不安との向き合い方|「こころ」のための専門メディア 金子書房

ナラティヴ・アプローチとマイクロ・アグレッション

私にとっては、あの支援者にとっては発達障害者は、「嫌な情報はスルーしたほうがいい」なんてことも思いつかないような拙い人物に見えているのだろうかとも感じられた。問題は、当事者は「嫌な情報はスルーしたほうがいい」なんていうライフハックはじゅうじゅうわかっているけれど、人生がそのハックでカバーできないほどに憂いの種で溢れていることにある。そして、支援者の理想的な仕事は、その当事者の感覚を知識で「よろしく指導」して矯正することではなく、対等な人間として「そんなに苦しいなんて知らなかった」と吐露することにあるのに。

支援者や専門家が専門性を捨て、被支援者と対等な立場に立って行うアプローチはナラティヴ・アプローチという。たまたま以前私が書いていた解説記事を貼っておく。

ナラティヴ・アプローチとは?「物語で問題を解決する」ってどういうことをするの?意味や手法など、わかりやすく紹介します | LITALICO仕事ナビ

いかにも好人物な支援者に、自分が発達障害者というだけでニコニコしながら少しだけ下に見られ、よろしく指導される形で抑圧されるというのはなんともいえない屈辱だ。自分がこういうごくわずかな屈辱を日々受ける側に生まれついていて、そこから一生降りられないということ、それがまた私の人生の悲嘆の通奏低音にひとつ音を加えるのだ。

こういった、悪意のない、むしろ良かれと思っての、単に知識・意識不足によるほんの少しの差別行動のことをマイクロ・アグレッションという。マイクロ・アグレッションのわかりやすい一例として、「日本で見た目が白人の人を見かけたのでとりあえず英語で話しかける」がある。その人は白人の見た目なだけで日本生まれ育ちで日本語ペラペラかもしれないのに、「白人の見た目=日本語ができないだろう」という偏見を悪意なしにぶつけてしまうのだ。

当事者意識を持つことはかくも難しい

ライターの鈴木大介さんの妻は発達障害で、もともと鈴木さんは妻に対して「なんでこんなこともできないのか」などとイライラしてモラハラ行動を行っていた。しかし鈴木さんはある日脳血管疾患で高次脳機能障害を負うことになり、初めて妻の感じていた苦しみに共感できるようになって…

ここまでは美談なのだが、この本で最も私の心に残っているのは、そのあと、鈴木さんが徐々に高次脳機能障害から回復してからのことだ。

自分がつらい間は簡単に共感できた妻に対して、自分が回復してきた途端にまたイライラするようになったというのだ。鈴木さんはこのエピソードを引いて、当事者意識を持つことは実際には非常に難しいことで、自分が楽になったらいとも簡単に消し飛んでしまうものなのだとゾッとしたということを書かれていた。

これは、定型発達で五体満足で子どもでも老人でもなく健康な人には、マイノリティの当事者意識をきちんと感じ取ることは非常に難しいことを示していると思う。

だからあの支援者も、ご本人が基本的にポジティブさでやっていける(あるいは無理にでもそうしてやってきた)人生を送ってきていて、周囲にこういったことを教えてくれる人がいままでいなかっただけで、特にご本人が悪いとも言えない。ただ、より良い支援のことを考えるのなら、こうしたことを頭の隅に置いておいてくれると、私や私のような人たちがすごくたくさん助かるのになと思うのだった。

 

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