大人の振る舞いに翻弄される子どもたち ー漫画『イツカミタアオイソラ』 感想
ルポライターの鈴木大介さんがTwitterで激推ししているのを見て、りさりさんの『イツカミタアオイソラ』シリーズ既刊7刊をすべて読んだ。
https://twitter.com/decinormal1/status/1343762616208904192
りさりさんとはもう何年も相互フォローで、たまに互いのツイートをRTしたりする間柄だ。ノンフィクションコミックを出されているのは知っていたが、今までどうも生活習慣の中に漫画を読むという行為が組み込まれていなかった私は、これまで拝読せずにきた。最近急にKindleで漫画を読むようになったところへ尊敬している鈴木大介さんのツイートを拝見して、思わず全巻まとめて買ってしまった。
普段のツイートから想像したとおりにめちゃくちゃに心に刺さってくる作品だったので、感じたところを書いておきたい。
Contents
さりは私だったかもしれない、私はさりだったかもしれない
『イツカミタアオイソラ』の主人公は、「さり」という名の少女。作者りさりさんの過去の姿だ。
私はりさりさんのツイートにいちいち親近感を感じていたから「仲間だ」とは思っていたけれど、一度「児童養護施設で育った子」「親に殴られて育った子」「十分に衣食住を与えられずに育った子」という属性を通してみると、どこか自分とは違ったところのある人なのかもしれないと思っていた。
けれど蓋を開けてみれば、周囲の大人の振る舞いのほんの少しの違いで、私たち子どもだった人々の運命が大きく分かたれていることがありありとわかった。
大人たちはいつも身勝手でわがままでずる賢くて、でも彼らなりに子どもを愛そうと、人生を立て直そうと懸命で…… でも何かがうまく噛み合わない。そして、その運命のゲームに翻弄され、混乱させられ、心身の芯まで傷つけられるのはいつも子どもなのだ。
私は親や親類に殴られなかったし、両親の間での暴力を目撃させられることもなかったし、児童養護施設に入ることもなかった。少なくとも両親からは、(理想的なものではないにしろ)十分に衣食住を与えられて育った。だから、一見すればさりと私は交わらない。けれど、大人の振る舞いに翻弄されて芯まで傷つき、運が良ければ経験しないで済んだことを経験し、考えなくて済んだことを考えざるをえなかったという点で、私たちは「傷つけられた子ども」という仲間なのだ。
命を賭してまで相手を守ろうとするのは、本当は子ども
親にとって子どもは、単にパートナーとの性的関係の結果生まれてきたものであることもあれば、世間体のために不本意ながら手元に置いているものに過ぎないこともある。親は子どもを捨てても生きていけるから、親にとって子どもは、命を賭す存在でないこともある。多くの人が目を逸らそうとしているけれど、これはまごうかたなき事実だ。
いっぽう、子どもにとって親は、命を賭すべき存在になってしまいがちだ。幼い子どもにとって、親との関係性、その心身のつながりの有無が自分の命の有無を左右しうるからだ。
大人のわがまま、間違い、弱さ、嘘。そのために自分が傷つけられたとき、あるいは誰かから親のことを否定されたとき、子どもはとっさに親を守ろうとする。自分は本来親から愛されており、その親からの愛は間違ったものなんかじゃなく、正しいものだと、そう思えるのでなければ、それは実存的に死ぬのと同じことだからだ。
ママが怒ったのは、私が悪い子だから。
ママが泣いているのは、私のことなんか産んだから。私は生まれちゃいけない子だった。
ママはかわいそうな人だから、私はいつもママが笑えるようにママを支えてあげなくちゃ。
かわいそうなママを泣かすパパは悪い人。パパは極悪人。
かわいそうなママを批判するあの人はひどい人。冷酷非道。
ママがつきあっちゃだめっていうから、あの人とは距離をとらなきゃ。
ママが心配するから、ママに迷惑をかけるから、悩んでいるのもお腹が痛いのも隠しておかなきゃ。
自分は尊い存在だという感覚を奪われ、無条件に生きていていいという権利を奪われ、子どもとして大人に身を任せる安心を諦め、周囲の人との温かな思い出や交流も黒く塗りつぶして忘れなければいけない。ときには自分の心身の痛みさえ隠さなければいけない。
これはもう、親に対する命を賭しての愛と奉仕だと私は思う。命を賭して親に奉仕するうちに実際に心身の自由と健康まで投げ出すようなことまでしたりさりさんと私が、いま生き延びてこうして出会えたことに奇跡に近い喜びを感じる。
チリのような嘘が積もって山になる
さりさんの母親がさりに対して、無意識に、ときに意識的に、些細な嘘をつきつづけるエピソードがあった。さりは施設で彼女らを世話してくれたシスターたちのことを思い返して、自分は施設の中で確かに大事に扱われていたと気づき、切実に懐かしむ。
思い当たるところがありすぎて、胸にザクザク来た。りさりさんも書いていたが、嘘自体がいけないというよりも、自分が何度でも嘘をついていいような相手だと思われていることを突きつけられるようで、尊重されていない思いでいっぱいになるのだ。
施設では、車酔いする子たちのために「30分までに着きます」と言ったら本当にそのとおりに着く。でもさりの母親は、あとどれくらいだという問いに「あと少し」「5分」「本当にあと5分」と繰り返し、結局小一時間してやっと目的地に着く、みたいなことをした。
私も小さい頃によく似た問答をした覚えがある。気持ち悪くなってきて、あと5分というからあと5分のつもりで時計の針とにらめっこするように凌いでも着かないことを繰り返すから、こらえきれなくなって嘔吐してしまうのだ(しかもそれで、酔いやすい私が悪いということになる)。正確に何分なのか言ってくれ、せめて短めに言わないでくれと言っても無駄だった。
こういう大人は、相手が子どもだというだけで、その発言を軽んじる。どれだけ本気で怒っても、あるいは泣きながら懇願しても、あらー本気にしちゃって可愛いわねえーみたいにニヤニヤされるのだ。こちらが子どもだからというだけの理由で。こういうとき、子どもにとっては嫌な扱いを甘んじて受ける以外に選択肢がない。拒否の意向がことごとく無視されるし、「親権」とかいうわけのわからないものは親の手にあって、子どもに親を選ぶことはできないからだ。
「お前の言葉は無力で、お前の尊厳は軽んじられてよいものだ」子どもに対して繰り返し嘘をついたり、嘘をつかないでという言葉を無視したりするのは、そういうメッセージを発しているのと同じことだ。
さりが幼い頃に施設で、嘘のない、子どもを尊重する関係性を経験していたのは素晴らしいことだった。この尊重された経験がなければ、親の嘘の毒性に気づくことができなかったかもしれない。
小さな生き物は私の友だち
野良犬、ウサギ、ジュウシマツ、オウム… この作品は、小さな生き物が子どもと心を交わすシーンが印象深い。
飼い主に捨てられた犬に、「親に捨てられた」自分を重ねたり。
死んでしまっているところを発見された子ウサギにシスターが「せめて生きていれば」とつぶやいていたのを、親に殺された子どものニュースを見て思い出したり。
周囲の大人の都合で住む環境を点々としなければならないオウムに、やはり自分を重ねたり。
私は自分の親との間にとても複雑な葛藤を抱えてはいたけれど、「親に捨てられた子」ではなかった。それでも、家では親役として機能する人がおらず、外に頼れる人もいず、学校では排除されたりいじめられたり虐待されたりして孤独だった私は、さりと同じように動物を友だちにしていた。
りさりさんもどこかで書いていたと思うが、動物は自分を差別したり排除したりしない。あったかくてふわふわで、一緒にいろいろなことを経験してくれる。こんなひとりぼっちで悪い子の自分を掛け値なしに慕ってくれる。動物たちとの交流は、孤独で厳しい日常を生きる子どもにとって癒やし以上の何かだ。糧であり、文字どおり、かけがえのない友だち。
物語の中で、緊迫した家庭の中で唯一光をくれていた人懐っこいオウムは、両親の離婚に伴って機械的にエサだけ与えられるような誰とも交流できない環境に移され、ストレスで毛引きをするようになって、あっという間に死んでしまった。
私はこのシーンだけは泣かずに読み終えることができなかった。実家には私が10歳のときに祖父が買ってくれたオカメインコのピーコがいて、これが長生きで、私が31で駆け落ちして家を出るまでとっても元気だった。ピーコは私の実家でのつらい日常の大半をピイピイ可愛い声で鳴きながら和ませてくれた。よく、彼がゆったり毛づくろいしてうつらうつらしだすのを眺めながら、私もカゴのそばに転がって昼寝した。実家での時間の中で唯一安心できる瞬間だったように思う。
私は駆け落ちのときに彼を連れていけなかったことをずっと後悔していたけれど、数年後に、ピーコが私がいなくなって1年ぐらいでパタリとカゴの床に落ちて死んでいたという話を聞いて、彼(オスだった)は寂しくて死んだのだろうと思った。エサと水の世話は動物の嫌いな母がしぶしぶやっていたということだが、昔は家族に囲まれ、たくさんおしゃべりして育った彼がそんな寂しい環境になったら死んでしまうと思う。さりのオウムの話は、ピーコのことを強烈に思い出させるものだった。
私も心の奥底で、深く交流した動物たちと自分の境遇を重ねてきた。なにしろ、悪夢でピーコがひどいエサを与えられてグロテスクな皮膚病みたいなものにかかって死にそうになっている悪夢を繰り返し見て、それに対してトラウマ治療でアプローチすると、彼は私なのだ。
私はあの家で、ピーコのようにカゴの鳥で、自分の生きる環境を大きく左右することについて私だけ一人頭の人間として扱ってもらえることがなく、年を追うごとに寂しくて厳しい環境で生きねばならなくなった。ストレスで地肌が見えるほどに髪が薄くなったっけな。確かに、いろんな意味でピーコは私だった。
孤独な子どもにとって、動物はかけがえのない友だちであり、仲間なのだ。
大事な人との記憶が黒で塗りつぶされる
親戚から繰り返し母親の悪口を聞かされているうちに、さりの中で母親の顔から生き生きした表情が消えて般若の面のように見えるようになる、というエピソードがある。
これも私には経験がある。自分の中で「怖い母親」「侵入してくる母親」という印象が爆発的に強くなって、その強力なイメージに圧倒されるようになると、彼女との間に確かにあったはずの経験とかイメージのニュアンスが、圧倒的なものだけで一色に塗りつぶされてしまったようになるのだ。
私には一時期、家族のメンバーそれぞれにそういう出来事が起きていた。集中的なトラウマ治療を受けて、恐怖感や嫌悪感、怒りを処理しきって初めて、ああ、でもこんないい思い出もあったな、と思い出せるようになったのだ。
さりの物語は今のところ、般若になった母親の時点で止まっているが、早く続きが読みたいところだ。
さりを支える「神さまの記憶」
さりはカトリック系の児童養護施設で育った。このため、彼女の中には信仰に近い想いが根づいている。彼女の中の神は罪の意識で彼女を苦しめることもあれば、苦しい環境を乗り切っていくための唯一に近い強力な支えになることもある。
傷つけられた子どもの人生にはそれぞれに壮絶なものがあって、誰がどうとか比べられるものではない。けれど、そうとうに壮絶なものを経験しながらもりさりさんが今も元気に生きておられることの秘密のひとつは、施設にいる小さい頃に彼女の中に根づいた、神の存在や人の愛への信頼にあるのかもしれない。ふまじめなカトリック信徒としては、こういった点も親近感を感じるところのひとつだ。
自覚のあるなし問わず、自分が子ども時代に周囲の大人から傷つけられた人たちすべてに ―つまりすべての人に、『イツカミタアオイソラ』を勧めたい。