社会とのつながり
仕事の資料を探すため、てくてく歩いて地元の図書館に行き、数冊借りてきた。帰りに仕事の書類を道端のポストに投函。帰り着いて自宅のポストを見ると、仕事の書類が届いていた。
「仕事をこなすために外に出なければいけない」ことのうれしさ。
今までは仕事は、一歩も家から出ずとも、Web上だけで完結していた。それは私にとっては楽なことではあるものの、どこか手ごたえがなく、何か寂しいものだった。地元の人に仕事を訊かれ、「ライターやってます」と言っても、いわゆる「ライターっぽい」行動を地元の誰にも目撃されることがないため、まるで「あなたの職業は本当に存在しているのですか? あなたの妄想なのではないでしょうか?」みたいな感じがあった。もう6年もライターをやっているのに、私は、自分が本当にライターなのかどうか、心のどこかでずっと不安だった。
だけどこれからはたとえば、記事を書くために図書館で資料を探しているときに、地元の人とばったり出会ったりできるのだ。ライターである生身の私を、誰かに見てもらえるのだ。図書館で誰かと出会ったら、いかにも「まいったまいった」という顔で頭を掻きながら言おう。いやー、ちょっと仕事で資料を探してまして。
「私宛てに郵便物が届く」ことのうれしさ。
以前は、私宛てに郵便物が届くことなんてほとんどなかった。特に実家にいたときなんてそうだ。実家のポストに入る郵便物の大半は、父(かなり出世した人だ)のものばかりで、私宛てに来る郵便物なんて、服屋のDMぐらいだった。ああ、私は消費者として以外この世に認識されてないんだな、消費者としてしか存在できていないんだな、ものを消費することしか能がないわけだ、私という人間はこの社会にとって用無しなんだな。毎日毎日、玄関のドアを出るのはポストを開けてみるときぐらいという日々のなかで、ポストを一度開けるたびに、私は1ミリずつ傷つき、孤立し、絶望していくのだった。
でも今は違う。事務書類やら資料やら、なにやらかにやらポツポツと届いて、そういうのにいちいち署名捺印したり、送り状を添えたりして、近所の郵便ポストに投函しにいかなきゃならないのだ。
面倒くさい、めちゃめちゃ面倒くさい、社会の誰かが私に何か用があるということ、私に、その用に応える義務やら責任があるということ、それが、面倒くさくてうれしい。私は他人なんてすごく苦手なのに、それでも、社会とつながらずに生きてゆける気がしない。社会とのつながりは私の魂にとってのライフラインである。
うれしい、うれしい、うれしくて泣きそうだ。