自分の中の社会・文化的欠落に気づいた話

今まで経験したことのないような幸せな日々を送るなかで、かえって「自分の人生経験の中には欠けていたものが多かった」と気づかされた話。

生まれて初めての経験をする日々

私は発達障害と複雑性PTSDを持っている。最近は治療やケアのかいあってずいぶんと回復してきたように思うが、その過程でずいぶんといろいろ、「生まれて初めての経験」をしている。

「最低限の栄養があって腹がふさがればいいや」ではない、ちゃんとした食事を作って食べる経験。今まで、数日分の料理や買い物、生活をイメージして、それに沿って行動する、という余裕がなかった。毎日を生きるのにせいいっぱいで。私は、「自分なんて一生、間に合わせの適当な食事を食べて生きていくんだ」とばかり思っていた。

社交場面で、まったく疲れず、心底楽しくおしゃべりし、エネルギーをたくさんもらって終わる経験。またこうした社交場面を持ちたい! と社交欲を感じる経験。感覚刺激が最低限で、話題的にも雰囲気的にもアウェーでない環境での社交場面を経験して初めて、自分の「コミュ障」でない側面、人好きな側面を知った。

アラフォーにして初めて、「人間になった」かのような経験を重ねている。人間として生きるというのはこういうことだったのかと、しみじみ感嘆する日々。

いままで「人間でなかった」宇樹

逆に、逆にいえばだ。いままで私は、「人間でなかった」という表現も成り立つわけだ。そう思うとわりと落ち込む。

「人間でなかった」ことについていろいろ思い巡らせてみると、関連のエピソードをいくつも思いつく。

いまだに、「適度な掃除」「正常な範囲の整理整頓」がどの程度なのか、掴めずにいること。実家にホーダー(ためこみ症者)がいたうえ、実家には、定期的な掃除の習慣を持っている者が一人もいなかったのだ。

「家族でファミレスに食事に行って団らんする」ことに、この歳になっても淡い憧れを抱いたままなこと。私は、「ファミレスでの団らん」を欠いた家族文化の中で育った。

実家メンバーの癖が強すぎたため、親戚づきあいも、近所づきあいもほぼなかったこと。
学校でも浮きまくっていてほぼ友達がいなかったため、近所のお祭りなんかは仕方なく一人で黙って参加していたこと。
いま思えば各種の感覚過敏や不定愁訴のため、コンサートや劇、映画を見にいったりする習慣がなかったこと。
母が私の行動を軟禁に近いほど縛っていたため、夜遊びや旅行もほとんど行ったことがなかったこと。
薬剤過敏のため、大人になってもコーヒーもお酒も楽しめないこと。

… エトセトラ、エトセトラ。

社会・文化的欠落のむずかしさ

私は、「家庭とは不快で不可解で危険なところだし、人とは元来孤独なもので、誰しも理解者などというものは持っていない。人生とはひたすらに辛いことに耐えるものだ」とばかり思っていた。30余年のあいだ。

私は私として生きてきた中で、ずいぶんといろいろな「人間らしい活動」から切り離されてきたものだな… これはつまり、一種の社会・文化的欠落というやつなのではないか。その人の属する文化圏の標準的な人なら当然経験するような、社会・文化的なもの・ことから切り離されて育ち、経験した時代の共通記憶の一部にぽっかり穴があいたようになるやつ。

カルトによる虐待や教育虐待のひとつに、「周囲の普通の子どもだったら自然と体験するような社会・文化的体験をさせずに育てる」というものがある。たとえば折々の節句に参加させない、(医療的なことを理由としてでなく)周囲と大きく違った食習慣で育てる、歌を歌わせない、テレビや漫画などの娯楽に触れさせない、遊ぶ時間がなくなるほど長時間勉強させる、周囲から浮くような活動への参加を強制する、など。

このようなタイプの虐待は、子どもに生涯レベルの大きな影響を残す。周囲と言葉や世界観が共有できなくなり、社会的な孤立を招くからだ。きつい食事制限のもと育った子どもは、のちに摂食障害を発症することもあるという。

また、統合失調症のうち比較的若いうちに発症するタイプの人は、診断や治療が遅れるうち、ひどい症状や入院が長引き、健康な人が思春期や青年時代にするような経験の機会を逸することもあるという。こうした社会・文化的欠落は、本人の社会復帰やQOL向上にあたって、病気それ自体よりも大きな悪影響を残すそうだ。このあたりは、私の発達障害の発見が遅れたことによる悪影響と非常に似たものを感じる。

青春が欠落していたなら、青春を補えばいい

以上、どちらかというと落ち込んだ、という話なのだけれど、私には、「なにごとも自覚していたら大丈夫」という座右の銘のようなものがある。

とりあえず、自分の中に社会・文化的欠落があったんだな、と自覚したんだから、これからはその欠落をうまいこと埋めていく生活をすればよい。今はなんでもスマホひとつで調べられる時代だし、Twitterがあれば、ニッチな趣味や悩みを持っている人間でも、だんぜん仲間とつながりやすくなった。というか私はまさに今、めちゃくちゃつながっている。

確かに、時間も身体も当時まで巻き戻すことは不可能だ。その喪失感だけはなかなか埋められないけれど、いまからできる範囲で青春を体感することは、少なくとも私にとってマイナスにはならないだろう。

そう、私の青春は、いま、これからなのだ。そう思うことにする。ほら、じゃあみんな、放課後に三丁目の駄菓子屋に集合な!

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