現実と交感する
引越しを機に風呂いすと洗面器を、透明な緑のオシャンティなものに変えた。手桶も同じ色のものが欲しかったけれど同じシリーズのものがなく、Amazonで似たようなデザインのものを見つけてあったのだが、バタバタしてなかなか買わずに数ヶ月。昨日オットと所用でニトリに行ったところ、オットが茶色の手桶を手にとって「これ買って帰ろう」と言う。「いや緑のいいやつを見つけてあるんだよ。数日待てば届くから私がAmazonで注文するよ」と言っても、「数日待つのが面倒くさい。色なんかちょっとぐらい違ったっていいじゃん」と言って聞かない。
私は家にあるものの色形をきれいに揃えていると落ち着くタイプで、インテリアなんかにもこだわりがある(たぶん自閉傾向のひとつだと思う)。少し前までの私ならオットと険悪になってでもお風呂の小物をすべて透明の緑で統一しようと我を通しただろう。けれど最近は、そういうことよりも大事なこと、たとえばオットとの関係性を二人で紡いでいくこととか、があるような気がして、多少ぶんむくれながら茶色の手桶を買って帰った。
お風呂に設置してみると一気にお風呂に生活感が出てしまい、見るたびにうっすら腹が立つ。ああ、私はこれから毎日お風呂に入るたびにうっすら腹が立つのだろうか、いやいや、風呂の小物の色が揃っていないぐらいで死ぬ人はいない、と自分を説得しつつ、その日の入浴時に手桶でお湯をすくった瞬間、驚いた。
めっちゃお湯すくいやすい!!
さすが手桶である。お湯をすくうために作られた桶である。めっちゃお湯すくいやすい。同じ量のお湯をすくってもだんぜん軽く感じる。
思わず何度も必要以上にかけ湯をしながら、手桶のお湯のすくいやすさを確かめてしまった。ヘレン・ケラーでいうところの「ウォーーーターーーー!!!」並みの電撃的すくいやすさ。「てーーーおけーーーー!!!」である。
何が言いたいかというと、だ。
最低限の衣食住が足りている場合に限りだけれど、最愛の人、あるいは最愛の人たちとの関係性を、滑らかに、いつまでも途切れないように丁寧に紡いでいくこと以上に、 大事なことはないのでは、ということだ。
家がきっちりきれいに片づいていないと腹立つとか、落ち着かないとか不安とか、そういう傾向が私にはあるけれども、オットとの共の生活の温かさを捨ててまで、私は自分の狭い桃源郷にいたいとは思わない。
オットは立ち居振る舞いがエネルギッシュでloudな人で、私がコツコツ積み上げた静かで整った環境をひと足で崩してしまう。それは疲れることだけど、でも、だからといって、オットが出張でいなかったりして、私がきっちりテーブルの端に置いたものが、翌日になってもきっちりと理想的にそこに置いたままになっていると、平和だけれど寂しい。朝起きて、居間のどまんなかにユニクロのステテコが輪っかの形で(オットが脱いだそのままの状態に)落ちているのを、ちょっとイラッとしながら回収するのが、私にとってオットの存在感の大きなひとつだ。
加藤諦三の「子供にしがみつく心理」という本で、神経症傾向のある人がさまざまなものへの依存を脱して幸せになるには「人の違いを楽しむ」「現実を味わう」ことが大事だ、というような記述があった。
人の違いを楽しむ、現実を味わう… まさに今私がやっていることだと思った。逆に言えば、母はこれができなくて、自分の不安の解消、自分にとっての桃源郷の構築を生活の再優先事項にしているうちに、どんどん人や現実と交流できなくなっていって、妄想の世界の人になってしまったのだろう。
トラウマからの回復は一生続くものだそうで、私も今後もいろいろあるのだろうけど、けっこう、かなり、いいところまで歩いてこれたな、と思った。よかった、私には確実に神経症の素養はあるけれど、どうやら、妄想への道のりではなく、幸せへの道のりを歩むことができているらしい。